• 検索結果がありません。

第3章 「いわき市・東日本大震災の証言と記録」記録誌及びDVD(平成25年3月25日発行) | いわき市役所

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2018

シェア "第3章 「いわき市・東日本大震災の証言と記録」記録誌及びDVD(平成25年3月25日発行) | いわき市役所"

Copied!
35
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

第 3 章   日 々 、 苦 闘 の 連 続

    い わ き 市 に お け る 大 震 災 対 応 を 追 う ( 3 /

11 ~ 4 /

30 )

(2)

1 地震、津波、原発の被害が重層

(3月 11 日~ 13 日)

(1) 巨大地震が発生!津波が来襲!

① いつもの時間〈市、市議会〉

 平成23(2011)年3月11日(金)、その日は 少し朝焼けがかった空模様で明けた。寒い 朝であったが海は穏やかだった。(写真3-1)  日中、次第に冬型の気圧配置が幾分緩み つつあり、晴れ間の多い空に次第に雲が広 がっていた。

 例年ならば中学校の卒業式は3月13日 であるが、日曜日に当たっていたことか ら、この年は金曜日の11日に繰り上がりと なった。いずれの中学校においても、厳か なうちにも別離のさびしさと新たな旅立ち の高揚がないまぜになった午前が過ぎた。

 いわき市は市議会2月定例会のさなかであったが、当日は中学校の卒業式に当たっていたことから、休会 日であった。しかし、市職員は前日までに終了した各委員会における市議会議員とのやり取りを再確認しな がら資料作成や対応策に追われていた。次週には議案の採決が控えていた。

② 巨大地震の発生〈後に東北地方太平洋沖地震〉

 午後2時46分、地鳴りとともに大きな 揺れがやって来た。

 3月9日にも地震があった。いわき市で は震度3を記録し、津波注意報が出た。  それにしても今回の場合、揺れが大きく 長い。しかもだんだん大きくなる。平衡感 覚がなくなって何かにつかまっていなけれ ば立っていられない。

 執務中であれば、棚からモノが落ち、ロッ カーや書籍棚は相次いで倒れ、床に本、書 類が重なって落ち、床を埋め尽くすなか、 身を置く場所を探す。自宅でくつろいでい れば、掴むモノを探しながら腰を浮かし、

次の動作を決めかねる。車の運転中であれば、視界のなかで道路が波打って激しく揺れ、思わずブレーキを かける。道路を歩いていれば、身動きできず揺れる景色を見回しながらうずくまる。

 さらに、揺れは激しさを増し、視界が裂かれ、異世界へ無理やり引き込まれていくようだった。

 大地震が発生、大きな揺れは3分以上にも及んだ。その瞬間から、長い災害との戦い、克服の日々が始まっ た。(写真3-2、3)

3月11日

(金)

③ すみやかに立ち上げる体制〈市長、市災害対策本部・地区本部〉

 市は地震発生直後の午後2時50分に「いわき市災害対策 本部」(本部長=渡辺市長)を設置した。幾日も続く24時間体 制による災害対策業務の始まりだった。(写真3-4)

 市役所では1階部分で建物被害が大きかった。市災害対策 本部となる8階の大会議室も大きな余震が続くなか、安全性 の確認がとれなかった。このため、市は地域防災計画に基づ き、災害対策本部を代替場所である市消防本部庁舎内に置い た。(写真3-5)

 呆然とする間もなく、渡辺市長(本部長。以下「市長」と表記) 以下、市幹部が市消防本部に集合した。すでに午後2時49 分に気象庁から大津波警報が発表され、余震も続くなか、大 災害との認識に立ち、市長はただちに避難所の開設、避難者 の把握、食料・寝具などの配布および必要物資などの集約、 支援物資の受け入れを指示し、総務班、消防班、土木班、福 祉班などが、それぞれの任務に当たるため現場に散った。  各地区の災害対策本部も大地震発生直後、各支所長の指示 によって避難所が設置され、福祉班が対応に当たった。  しかし、あらかじめ指定してあった避難所以外に避難した 住民も多く、情報が寸断されたなか、把握には困難を極めた。 特に、海岸を持つ平たいら地区、小はま地区、勿こそ地区、四よつくら地区、 久ひさ

はま・大おおひさ地区は津波を逃れるため、最寄りの高台の施設 をめざしたことから、避難所は多くを数えることになった。  時間を経るにつれて、水道の蛇口から水が出ない、水洗ト イレが使えない、都市ガスが出ない、たまたま市災害対策本 部につながった電話の声が悲痛と怒声がないまぜとなって受 話器に響く。その先にいるのは1人であったが、その背後に 数え切れない一人ひとりの不安や混乱、苛立ちが渦巻いてい た。

 時間が経過しても情報がつながりにくく、また、 地震災害で道路状況も容易につかめず、夜のなか、 車の渋滞は激しくなり、効率は極めて悪くなる。災 害対策本部には対応を急ごうにも焦燥感が募るばか りで、迅速な行動は錯綜した情報に飲み込まれてし まう状況だった。

 このような状況のなか、午後5時55分、市長は 災害対策本部が置かれた消防本部4階で臨時市長記 者会見を行い「全力で震災に対応する」ことなど、 決意を表明した。(写真3-4)

 以後、基本的には市災害対策本部と地区本部は連 携をとりながら災害対策に取り組んでいくことにな

写真3-1 薄磯海岸の穏やかな海(朝6時ごろ)

〔平成23(2011)年3月11日 Kouichi Seya氏提供〕

写真3-5 市災害対策本部が置かれた市消防本部

〔3月11日 いわき民報社提供〕 写真3-2 地震直後の市庁舎内部

〔3月11日 いわき市撮影〕

写真3-3 落下した図書で通路が埋め尽くされた市立 いわき総合図書館

〔3月12日 市教育委員会事務局撮影〕

写真3-4 着替える間もなく臨時市長記者会見に臨み、 決意を表明する渡辺市長

〔3月11日午後5時55分 いわき民報社提供〕

3月

11日

(3)

るが、直後の数日は情報が寸断されたこともあって円滑な情報共有を取ることは困難な状態だった。実際は 各地区本部単位で地区の実情に応じた対策を取らざるを得ない状況が続くことになった。

 いずれにしろ、終わりのない膨大な業務と課題を抱え、市災害対策本部の11日は過ぎた。

④ 立て続けに起こる大きな揺れのなか、避難と混乱〈東北地方太平洋沖地震および余震〉

 午後2時51分に防災行政無線で避難指示 を出すとともに、沿岸部を所管する各消防署 や消防団が、消防車両などを海岸部に向かわ せ、海岸付近の住民に対し避難を呼びかけた。 この間にも、数え切れないほどの余震は続き、 誰もが浮き足状態となっていた。

 マグニチュード7以上の地震が午後3時 8分=小はまで震度3(岩手県三陸沖、マグニ チュード7.4)、午後3時15分=小名浜で震度4

(茨城県鹿島灘沖、マグニチュード7.6)、午後3時 25分=小名浜で震度3(三陸沖、マグニチュー ド7.5)と、立て続けに起こった。

 余震は上記を含め、東北地方太平洋沖地震 から以降、午後4時までに限っても、震度4 が4回、震度3は13回を数えた。(写真3-6、7)  この災害に呼応するように、大地震直後か ら空がにわかに黒い雲に覆われ、冷たい雨が 降り始めていた。いつもより早く夕方が来る 感じで、誰もが不安に立ち尽くし、苛立って いたが、情報は断片的で態を成していなかっ た。高台に向かって避難する車や家や職場に 戻る車が続々と、しかしその動きは次第に思 うように動かなくなり、被災した道路のあち こちで立ち往生する姿が目立っていく。  後にわかったことだが、すでに津波の第1 波は午後2時52分に1m(小名浜港4号埠頭観 測機器の測定)に達した。消防署、消防団は何 度も避難の呼びかけを行っていた。(写真3-8)  しかし、地震、あるいは第1波到来後、自 宅の様子を見に戻っている住民がいるのでは ないか。さらなる呼びかけが必要として、午 後3時45分には、市内沿岸全域に対し、サ イレン吹鳴により再度の避難を呼びかけた。 このころ、海岸には第2波の大津波が押し寄 せていた。

 この間にも、余震は続く。この日の午後4時から12時まで、震度3以上に限ってみても、震度4が7回、 震度3が12回を数えた。

⑤ 自衛隊へ派遣要請、捜索活動〈市災害対策本部、消防・警察〉

 海岸部では津波被害により、多くの犠牲者が出たことが伝えられたことから、この間、消防車、救急車が 総動員されて、消防・警察関係者による、被害を受けた負傷者の救急搬送や遺体の収容、行方不明者の捜索 が始まった。

 しかし、彼岸が近いとはいえ、にわかの悪天候のせいもあって夕闇が早かった。その日の捜索は限界を迎 えた。

 午後4時30分、市長は福島県知事に対し自衛隊の派遣を要請した。

 午後11時には、郡こおりやま市から陸上自衛隊第6高射特科大隊が到着し、災害救助活動を開始した。

 午後11時半現在、福島県警察本部、いわき市役所、市消防本部のまとめで、「いわき市の死者は66人、行 方不明者は74人に達した」と発表した。しかし、確認の取れない人も多く、増加が予測された。

⑥ 予期しない津波に高台をめざし〈避難所〉

 津波に襲われた、あるいは津波を予測した避難者は避難所だけでなく、目立った建物、高台の建物に逃れ  地震のときには、勤務先の常磐共同火力㈱勿来発電所でTV会議の最中でした。自分

の業務である社宅管理上、被害確認のために外へ出た際に、ラジオで大津波警報が出て いるのを知りました。私は消防団員でもあるので、途中出会った地元団員に津波に対す る広報と一人では行動しないよう、住民への呼びかけを指示しました。

 社宅で被害状況を確認し、社員や家族に避難するよう指示、屋上から海を見渡したところ、海が大きく波打っ ているのが見え、急ぎ会社に戻ったところで、津波に襲われました。発電所のタービンや発電機はある程度高 い場所に置いてあるので、無事でしたが、電源は喪失し、補助機械や配電盤が海水を被り、機能不全に陥って しまいました。社員や関連会社の従業員は建物の2階以上に避難して無事でしたが、その日は暗闇で余震が続 くなか、約100人とともに不安な時間を過ごしました。

 家族とは夜に連絡が取れました。妻と子ども二人、父は裏山に逃げたのですが、足が悪かった母は間に合わず、 津波に流されてしまいました。家も全壊状態でした。

 震災後は家族や家の問題、会社の復興など、めまぐるしく大変な日々の連続でした。

 会社からは、被災した社員は自分の生活を立て直すことを優先に、と言われ、家族のつながりを今まで以上 に大切してきましたが、一方、大きな被害を受けた会社では、全従業員と協力会社が一丸となって復旧作業に 取り組み、震災から3か月半あまりでフル操業に戻すことができました。

 消防団活動は生活の再建に追われ、十分に行うことができませんでしたが、地域住民からは救助活動や避難 所における活動に対し、感謝の言葉を多くいただき、同じ団員として誇らしく思いました。

 震災を経験して思うことは、きちんと検証して、後の世代に引き継がなければならないことです。過去の記 録があれば、危機感を意識することができ、今回も違った対応ができたはずです。また、災害対応では、もっ と掘り下げて検討し、いざというときに備えておく必要があると思います。

(平成24年7月取材)

もり

  一いっせい

(常じょうばん共同火力㈱勿こそ発電所勤務・いわき市消防団第三支団所属/岩いわまち

5       震        災   憶    の 記  

あまりにも大きな津波被害と生活・会社再建の日々

森 一誠さん

写真3-6 大地震と相次ぐ余震に戸惑い、混乱する市民(いわき駅前)

〔3月11日 いわき民報社提供〕

写真3-7 余震が収まらず、不安な市民(ラトブ前)

〔3月11日 いわき民報社提供〕

写真3-8 消防団車両で津波の避難広報

〔平成23(2011)年3月11日午後3時25分ころ いわき民報社提供〕

3月

11日

(4)

ることになった。本部、地区の市災害対策本部は、指定された避難所以外のどこに避難したのか、情報が容 易に取れない。断片的な情報を手がかりに、その都度避難所を確認しながら、本庁舎や支所などに備蓄して あった乾パンや毛布を届けるのが精一杯であった。

 避難所に身を寄せた市民は、不安な一夜を過ごした。

⑦ 入院患者などの安全を確保〈医療機関〉

 市民の生命と健康を守る医療機関の役割は重要で あったが、建物被災や医薬品の不足などで、休診を 余儀なくされた。そのなかで、重篤患者を抱える総 合病院ではすみやかなバックアップ体制が必至と なった。

 とりわけ市総合磐いわ共立病院は地震直後、院内に 災害対策本部を設置。入院患者を屋外に避難させる 一方で、病棟被害の確認など、入院患者の安全確保 に努めた。(写真3-10)

⑧ 断水の周知と節水の呼びかけ〈市水道局〉

 水道施設の被害は甚大だった。浄水場から配水池 への送水管と配水池以降の幹線管路で漏水が多発

し、市内のほぼ全域で、約13万戸が断水する事態となった。

 このため、水道局は午後6時に、FMいわきなどを通じて断水のお知らせと節水の呼びかけを行った。  また、一般市民向けへ非常用地下貯水槽(15か所)などによる給水を開始するとともに、常時水を欠くこ とのできない救急病院や人工透析病院へ給水車による応急給水をいち早く開始した。

⑨ その他生活インフラの供給停止〈電気・ガス〉

 地震発生直後、市内では全20万戸のうち、2万670戸が停電となった。都市ガスも供給停止となった。

⑩ 公的な移動手段のほとんどが遮断〈交通機関〉

 JR常じょうばんせん、磐ばんえつとうせんの運転はすべて中止、高速道路の常磐自動車道、磐越自動車道も全面通行止めとなり、 交通機関はマヒ状態となった。一般の国道、県道、市道も道路陥没、土砂崩れなど多くの被害を受け、移動 中であった住民は迂回、引き返しなど試行錯誤のうえ、その日の夜半、あるいは翌日にかけて、ようやく自 宅や事務所、工場へたどり着くような状況となった。

 このなかで、福島空港行きリムジンバスが通常どおり運行を継続した。(翌日、福島空港では臨時便〔伊丹空港 線〕を3月31日まで設定)

 運転・運行管理をつかさどる交通機関は被害の状況を把握しようにも、強い余震が続くなかでは危険を伴 うため、初動体制すらとれない状況であった。

⑪ 有効なコミュニティ放送の受発信〈Sea Wave FM いわき〉

 交通や通信が寸断されると、移動者にとって唯一の情報入手手段がラジオとなった。これを担ったのが、 地震発生直後から放送された、「いわき市民コミュニティ放送(Sea Wave FMいわき)」である。

 FMいわきでは、災害直後に臨時災害放送に切り替え、市災害対策本部に機材を持ち込み、情報を収集し ながら24時間放送の態勢に入った。市災害対策本部からの広報、安否確認、市民からの情報、さらには環 境放射線測定値など、いわき市を中心とした多岐にわたる情報を受発信して、威力を発揮。放送は市外に離

れた住民や安否を気遣う市外の縁者にとっても、 唯一の細部にわたる情報源となった。(3月28日に は総務省から臨時目的放送局の免許が交付され、別の周 波数を通じ高い送信出力で災害情報を広くカバー)(写真 3-11)

⑫ 届かない情報〈福島第一原子力発電所、

市災害対策本部〉

 いわき市は原子力発電所の所在する双ふた郡の隣 接市であり、これまでさまざまな観点から原子力 との関わりを持ってきたが、法的にいわき市は「防 災対策を重点的に充実すべき範囲(EPZ)(半径8

~ 10km)区域外、いわばいわき市が原子力災害対策に関し「周辺関係市町村」に入っていないため、政府(原 子力安全委員会)などからの情報は直接入ってくることはなかった。(「EPZ」区域内ですら情報はなかった)

○  福島県の担当部署は県庁西庁舎から避難し、原子力発電所について緊急事 態の対応拠点となる大おおくままちに所在する「原子力災害対策センター(オフサイト センター )」も震災で被害を受け、機能がほとんど喪失(3月15日に県庁内へ移 転完了)(写真3-12)

 このため、テレビ、ラジオ、インターネットなどを情報の拠り所と して、さまざまな判断をせざるを得なかった。一部では停電が続き、 情報を得ることも困難であった。

 実際は、福島第一原子力発電所の状況が悪化していくが、その悪化 は表向きには容易に発表されなかった。

○ 午後3時37 ~ 41分=1~4号機の全交流電源が喪失

○ 午後4時36分=1、2号機で非常用炉心冷却装置による注水が不能

○ 午後6時ころ=1号機の炉心損傷、水素が発生  夜、政府から次の発表があった。

○  午後7時3分=福島第一原子力発電所および同第二発電所について、 原子力災害特別措置法第15条に基づき、菅内閣総理大臣から原子力緊 急事態宣言が発令

 この時点では、原子力発電所の所在する大熊町でさえも、具体 的な行動は求められていなかった。まして、いわき市では原子力 発電所事故の深刻さを十分に認識し得なかった。

○ 午後9時23分=菅内閣総理大臣より、第一原子力発電所から半径3 km圏内の避難、3~10km圏内の屋内退避指示が発令(図3-1)

 この時点でも、まだいわき市は発令された10km圏内には遠く、 原子力事故の影響について大きく考えることはなかった。(大熊町 に避難指示がもたらされたが、大熊町ですら深刻な受け止め方は、まだされ ていなかった)

 市災害対策本部は、24時間体制、昼夜を分かたずの地震・津波の現場対応(被災地の救援、避難所の開設、救 援物資の配給)などに当たっており、原子力事故が起きたこと自体を知る術がない職員も多かった。

写真3-10 懸命な治療を続ける市総合磐城共立病院救命救急セン ターのスタッフ 

〔平成23(2011)年3月11日 いわき市撮影〕

写真3-11 震災直後から情報を受発信し続けたFMいわき

〔3月11日 FMいわき提供〕

写真3-12 大熊町の福島県原子力災害対策セ

〔福島県提供〕ンター

図3-1 3km圏内の避難命令区域 いわき市

南相馬市 川俣町

小野町 田村市

広野町 楢葉町 川内村 富岡町

大熊町 双葉町 葛尾村 浪江町

飯舘村

福島第一原発から 半径3km圏内の避難指示 2011年3月11日 午後9時23分 一部避難

3km

3月

11日

(5)

○  午後4時17分=東京電力㈱が「原子力災害対策特別措置 法」に基づき、福島第一原子力発電所において放射線量が制 限値を超える緊急事態になった、と判断(国へ報告。以後、制 限値超に伴い断続的に報告)

○  午後6時25分=菅内閣総理大臣から、第一原子力発電所 から半径20km圏内の避難指示が発令(図3-3)

○ 午後7時4分=福島第一原子力発電所1号機原子炉へ海水 注入を開始

 第一原子力発電所の南、いわき市に近い第二原子力発 電所の状況についても、情報が入らず不透明な状態で あった。

 いずれも、いわき市に危機が迫っているということを 認識させる、重大な指示であり、放射性物質の飛散拡大 が懸念された。

 すでに、この日の午前中から双ふたぐん内の町村から避難 者が続々といわき市へ入っていた。避難者からの被災情

報は不確かさに満ちてはいたが、不安は次第にいわき市北部地域の住民から広がっていった。

 しかし、この時点で被害の想定は同心円を考慮したものであった。放射性物質の拡散と風向きや気象との 関係について、住民はもちろん、市にも伝えられていなかった。

(2) 本格的な災害対策を始動

① 断続的に続く余震〈東北地方太平洋沖地震〉

 昨日、震災に合わせるように降った雨は一時的なもので、この日は高気圧に覆われたが冬型の気圧配置は 続かない。移動性となって日本を覆い始め、晴れをもたらす。風向きも北から南東へ変化していく。この日 はおおよそ北-南(このとき1号機で水素爆発発生)と動いた。土曜日であったが、だれにも週末の感覚はなかっ た。

 市職員のほとんどが、折り重なった机や椅子、ロッカーを片づけ隙間をつくり、交代で仮眠を取り、朝を 迎えた。極度の緊張と続く余震に妨げられ、眠ることのできなかった者が多かった。それは被災した工場、 商店、事業所など、市民すべてにあてはまることであった。

 日付が12日になってから午前8時半までに、震度3の地震は11回を数えた。それ以下の地震も断続的に 続き、だれもが揺れのなかに身を置いている感じだった。

 3月11日に発令されて以降、1日以上続いた大津波警報が、津波警報に引き下げられたのは、この日の 午後8時20分であった。

 午前8時以降、余震の回数も減った。午後12時までに起こった震度3の余震は7回で、震度4以上は起 きなかった。それでも、大きな余震がいつ来るかわからない。市民は不安のなか、それぞれ手探りで生活再 開を求めた。

② 拡大される避難圏域と不安〈福島第一原子力発電所〉

 政府は午前3時過ぎの会見で、炉内圧力を下げるため放射性物質を含んだ蒸気を排出する「ベント」を実 施することを発表した。

 朝を迎え、政府の会見では1~3号機には順調に注水が進んでいると思われる、と説明された。その一方 で避難指示が発電所周辺の住民に発令されたのをみると、切迫感は伝わってくる。しかし、では原発事故が いわき市にどう影響するのか、という点は依然としてみえてこない。

○  午前5時44分=菅内閣総理大臣から、第一原子力発電所から半径10km 圏内の避難指示が発令(図3-2)

○  午前7時45分=福島第二原子力発電所について、原子力緊急事態宣言 が発令(12月26日解除)。菅内閣総理大臣から、第二原子力発電所から半径 3km圏内の避難、3~ 10km圏内の屋内退避指示が発令

○  午前10時17分=第一原子力発電所1号機でベントが開始

 午後になると、福島第一原子力発電所の状況がさらに悪化してい る様子を知ることになる。それは避難圏域が拡大されたことによっ て、現実のものと認識された。

○  午後2時ごろ=原子力安全保安院が記者発表し、「炉心溶融(メルトダウ ン)の可能性」と発表

○  午後3時36分=福島第一原子力発電所1号機原子炉建屋で水素爆発(写 真3-13)

 テレビでは、白煙を上げる爆発が遠目にもはっきりと映し出され た。しかし、この爆発が何を意味するのか、容易にわからない。政 府の会見では格納容器の爆発ではないことを説明されるが、情報は 確定的ではない。

3月12日

(土)

図3-2 10km圏内の避難命令区域 いわき市

南相馬市 二本松市

川俣町

平田村

古殿町 小野町

田村市

広野町 楢葉町

富岡町 川内村

大熊町 双葉町 葛尾村 浪江町

飯舘村

福島第一原発から 半径10km圏内の避難指示 2011年3月12日 午前5時44分

一部避難 全住民避難

3km 10km

写真3-13 爆発した1号機

〔3月12日 東京電力㈱提供〕

図3-3 20km圏内の避難命令区域 郡山市

いわき市 須賀川市

南相馬市 二本松市

川俣町

本宮市

石川町 玉川村 平田村

古殿町 三春町

小野町 田村市

広野町 楢葉町 川内村 富岡町

大熊町 双葉町 葛尾村 浪江町

飯舘村

福島第一原発から 半径20km圏内の避難指示 2011年3月12日 午後6時25分 一部避難

全住民避難

3km 10km 20km

3月

12日

(6)

③ 混乱のなかの対応〈市長、市災害対策本部〉

 午前4時10分、市災害対策本部は日本赤十字福島支部に災害派遣医療チーム(DMAT)の派遣を要請した。  外部からの情報は通信網がまだら模様になるなか、各班からの報告が続々ともたらされるが、脈絡なく、 全容は容易につかめなかった。市災害対策本部はその都度の対応を迫られた。(写真3-15)

 各地からの支援物資が届くようになった。トラックが市災害対策本部である消防本部に到着するたびに、 職員が一丸となって積み下ろし作業に従事した。各班の女性職員を中心に炊き出しのおにぎりづくりが開始 された。しかし水道が断水

したため、水の調達を前提 とする炊き出しは思うよう に進まなかった。

 津波被災地域では多くの 死者・行方不明者が出て、 家族の不安が高まったこと から、市災害対策本部に「安 否情報コーナー」を設置し た。これら情報については、

「FMいわき」を通じ、繰

 地震発生時は施設にいました。すぐにデイサービスセンターの利用者は帰しました。 ショートステイや特別養護老人ホームの入所者については家族と安否確認しました。  施設内には入所者と近所からの避難者合わせて144人がいました。地震の1年前に起

こったチリ地震の際の避難経験が生きました。職員などが役割分担を果たし、入所者の状態に応じてそれぞれ 2階以上に避難させることができました。

 午後3時半ごろ津波が来ましたが、駐車場を浸す程度でした。

 11日夜には、道路上のガレキ片付けを行い、翌日からは水タンク、非常食、紙オムツなど、市内を回ってか き集めました。幸い厨房が直営で、寮母も看護師もいましたので、食事を提供できましたが、地震や津波の被 害で避難する職員もいて、対応にも事欠くようになりました。

 13日には、原発事故で久ひさはまの住民や久之浜にある同種の施設入所者が避難したと聞き、四倉ではどうする のか、判断に苦慮しました。避難命令は出ていないということで、その夜会議を開き、職員は少なくなっているが、 施設に残って対応することとしました。

 それからは、報道機関や関係者に施設の実情を訴えて、水、食料品、介護用品などの不足を訴えました。お かげで多くの支援物資をいただくことができました。

 このような大災害のときは、むやみに移動するものではないことを実感しました。地震、津波、原発事故、 風評被害などが次々と起きて、すべてが後手に回ってしまいましたが、情報を確保することがいかに大切か、 あらためて認識しましたし、今後この点をどうするか考えるべきでしょうね。

(平成24年2月取材)

佐藤 英介

(社会福祉法人特別養護老人ホーム楽らくじゅ寿そう施設長/四よつくらまちかみ

6       震        災   憶    の 記  

被災したうえに情報がなく、対応に苦慮

佐藤英介さん

り返し市民に伝達されることになった。(写真3-16)

 状況は各地区においても同様であった。特に、水源地から離れた都市 部では避難者の数をまかなうだけの炊き出しは十分でなかった。臨時に 設けられた給水所から水を運び、被災を免れた公民館や集会所で炊き出 しをする、あるいはスーパーの在庫品を調達する、などにより地区の実 情に合わせた対応をせざるを得なかった。

 午後2時ごろから現場に散っていた市災害対策本部の各班が集まり、 長時間にわたり状況報告や今後の対策などが論議された。

 そのなかにあって、津波被災地区における道路上などの流出ガレキの

撤去や高齢者等要援護者の安否確認などが実施に移された。避難所における仮設トイレの調達や仮設住宅の 必要数も課題となったが、被災状況との兼ね合いであったことから、早急な現場把握が指示された。また、 避難所の対応として他町村からの避難者対応、各避難所へ常駐職員の配置、臨時となる遺体安置所の24時 間体制などが災害対策本部から現場に伝達された。

④ 楢葉町など双葉郡町村民の受け入れと市内自主避難の準備〈市長、市災害対策本部〉

 市長は「落ち着いて、屋外にでないよう」メッセージを発表した。

 次第に緊張感が高まったのは、午後6時25分、菅内閣総理大臣から第一原子力発電所から半径20km圏内 に避難指示が発令されてからであった。すでに、午後3時36分、第一原子力発電所1号機で水素爆発が発 生している。

 この間、楢なら町長からの避難所受け入れ要請があった。双ふたぐん町村との「災害時における相互応援協定」 もあり、いわき市長は受け入れを了承した。今後も他町村から同様の要請が考えられたが、その一方でいわ き市自体の危険も予測された。

 第一原子力発電所から20km圏内というと、いわき市のすぐ北に当たる。政府は「念のため、万全を期すため」 と避難の「圏内」の拡大を説明したが、3、10、20kmと広げていく過程は、だれにも不安を抱かせた。  「圏内」はまだいわき市にかかってこないが、刻々と避難区域が拡大される状況によって、原発事故の詳 細がわからない住民も事態が悪化していることを認識するようになっていた。

 市災害対策本部関係者はもはや、一刻の猶予も与えられない感じを抱いたが、政府や関係筋から地元への 情報は何も伝わってこない。

 市長は事態の悪化を憂慮して、第一、第二発電所から30kmの距離を地図に落とし、バスなどあらゆる交 通手段のチャーターによる避難計画を立案するとともに、翌朝、第一原子力発電所から30km圏内に位置す る久ひさはま・大おおひさ地区の地区民に自主避難を要請するという、独自の判断に至った。避難所や移動手段である 大型バスの確保(実際、国が双葉郡内住民の移動手段としてすでに押さえており、市独自の確保には困難を極めた)など、 準備は夜を徹して行われた。

⑤ 手狭になる支援物資の収納場所〈市災害対策本部〉

 災害の状況がテレビや新聞などで報道されたこと、東日本高速道路㈱が迅速な緊急復旧工事を行った結果、 午前11時には、緊急車両の通行が可能となったことなどにより、災害対策本部となる消防本部には企業や 団体、他自治体、個人からの水や食料、衣類などの提供が相次いだ。

 その一方で、各地から送られてくる支援物資を前に、物資班だけでは手が回らないため、消防本部に集まっ た班員が総出で仕分けし、避難所へ送る作業に追われることになった。

 しかし、物資の受け入れ量の方が多く、次第に消防本部の受け入れスペースは埋まっていく。このため、もっ と大きな容量を持つ施設・いわき平たいら競輪場を集積・保管を含めた集配所として開設することを決定した。さ らに、同時並行で受け入れ態勢を万全にするための組織づくりを早急に練ることとなった。

写真3-15 渡辺市長を中心に連日連夜行われた災害対策本部会議

〔3月12日 いわき市撮影〕

写真3-16 安否情報や生活情報をFMラジ

〔3月17日 FMいわき提供〕オで放送

3月

12日

(7)

⑥ 懸命に続けられる救助・救命〈消防関係、DMAT〉

 災害派遣医療チーム(DMAT)がこの日、 救助・救命に合流。前日に引き続き、午 前8時から自衛隊、市消防本部、消防団、 DMATが共同で、市内沿岸部全域において 救助・救命活動を開始した。(写真3-19)  特に大きな被害を受けた久ひさはま、四よつくら、 平たいら

うす

いそ

、平たいらとよ、小ばま、岩いわなどの救助・ 捜索活動を重点的に、しかも重なったガレ キを慎重に取り除きながらの作業となっ た。集落全体が津波に飲み込まれ、多くの 犠牲者・行方不明者を出したことが次第に 明らかになっていく。

 午後3時には、緊急消防援助隊が市内沿 岸部において救助・救命活動を開始した。

 大震災時では、岩城総合支所管内では大きな被害はありませんでしたが、停電は2日 間続きました。支所は非常用電源で稼動させました。3月11、12日と、支所と出張所に 避難所を設置しました。

 福島県からの情報はなく、また支所管内の対応に追われていたこともあって、大丈夫という観測で経過して いたのですが、どうしても電話がつながらず、13日の朝、ようやく都市交流関係のいわき市職員の方と連絡が 取れましたが、市役所本庁舎から避難しており、水、毛布がないという情報。急いで由利本荘市本庁舎に備蓄 してあった1,000枚の毛布を調達しましたが、水が調達できませんでした。このとき由利本荘市でも買いだめは 始まっていたのです。ようやく酒造会社から水を調達し、ガソリンを満タンにして出発できたのは、その日の 午後4時でした。深夜に無事到着し、物資を市にお渡ししましたが、惨状は思った以上でした。

 戻って、状況を市長に報告し、ただちに職員派遣と、物資の調達にかかりました。職員派遣は由利本荘市全 体で調整しました。また募金箱を置き、住民にも周知を図りました。ま ちづくり推進機構とコミュニティ推進協議会などからいただいた義援金 では米を調達しました。由利本荘市においても、今回いわき市の現場で みてきた大震災を今後のまちづくりに活かそうとさまざまな見直しをし ておりますが、まずは自分の身は自分で守る、を徹底させていきたいと 思っています。(写真3-18)

 復興は大変でしょうが、みんな心を一つにしてがんばってほしいと思 います。歴史的な縁もあり、私たちも応援しております。

(平成24年2月取材)

今野 光志

(秋あきけんほんじょう市岩いわ総合支所支所長)

7       震        災   憶    の 記  

いわきへ、遠距離を走りいち早く支援

今野光志さん

⑦ 災害医療チームを派遣〈日本赤十字福島支部、日本医師会〉

 地震発生後から多くの医療機関が休診を余儀なくされる状況 となったことから、市内の医療体制を緊急に確保する必要が あった。

 市災害対策本部からの要請により、日本赤十字福島支部は 災害派遣医療チーム(DMAT)の派遣を4月17日まで、さらに、 日本医師会災害医療チーム(JMAT)も、市災害対策本部からの 要請により、5月3日まで、それぞれいわき入りして活動した。

(写真3-20)

 いずれも市医師会との連携で、避難所など市内各地区を巡回診療 した。(写真3-21)

⑧ 流失ガレキの撤去〈市災害対策本部、市建設業協同組合〉

 大津波の発生により、沿岸部には破壊された家屋や自動車などが ガレキ化して流れ込み、しかも大量に重なり合って、道路の通行や 救助・救命活動を妨げた。

 市は市建設業協同組合との協定に基づき、地元の建設業者の協力 を得ながら、重機を用いて道路上など、公共部分を中心とした津波 による流出ガレキの撤去作業(~4月上旬)を開始し

た。市長は救助・救命に関わることから、市道だけ でなく県道などの流出ガレキ撤去を一体的に行い、 その迅速化を図るよう、担当部に強く指示した。(写 真3-22)

 一日も早いガレキ撤去が望まれた一方で、津波に 巻き込まれた死者・行方不明者の捜索と重なること から、慎重な作業推進も要請された。

⑨ 指定された避難所以外にも大勢の避難者

〈避 難所〉

 この日の午前中、避難所の状況が地区本部を通じ て市災害対策本部に報告された。市全体の避難所・

避難者数は、この日の午前10時現在で把握しているだけで127か所、2万人弱を数えた。この日の朝に帰宅 した住民や、新たに避難してきた市民もいて、避難所の数も収容人数も把握には困難を極めた。避難所に出 入りする市民は自宅家屋の破損に気遣いながら、断続的に続く余震のなか不安な一夜を過ごした。

 市地域防災計画で指定していた避難所では、永ながさき小学校、豊とよ中学校など4か所が津波被害で使用不能と なっていた。防災計画で指定されていなくても、住民が駆け込んだ場所が避難所となった。ホテル、高齢者 施設、工場などふだんは考えられないような場所であった。これらの場所も地震によってどこかしら被害を 受けていた。沿岸部では、津波情報もあって、より高い場所へ、という考えが沿岸部を中心に避難者を駆り 立てていた。

 各避難所に対しては、市災害対策本部・地区本部が寄せられた支援物資をニーズに応じて配布したが、十 分とは言いがたかった。この時点で、避難者の数が支援物資の量をはるかに上回っていた。このため、当初、 市災害対策本部および地区本部は地域の実情に応じて、市職員のほか、町内会やボランティアなどの支援を

写真3-18 親子都市・由利本荘市職員に よる市税減免申請受け付け

〔9月14日 いわき市撮影〕

写真3-19 沿岸部における救助・救命活動

〔3月13日 市消防本部撮影〕

写真3-20 市長、JMAT、市医師会長などによる共 同記者会見

〔3月18日 市医師会提供〕

写真3-21 避難所において巡回診療を実施する

〔3月 市医師会提供〕JMAT

写真3-22 津波に破壊されたガレキの撤去

〔3月26日 いわき市撮影〕

3月

12日

(8)

得て、炊き出し、水の確保などを実施することとなった。

 午後6時、避難所は120か所、避難者数は1万6,709人を数えた。

⑩ 24 時間体制で復旧作業を開始〈市水道局〉

 震災後、市民が生活するうえで、最初に問題となったのは水であった。  市水道局は地震直後から24時間体制で復旧作業を開始。膨大な件数の 漏水が発生しており、どこから手をつけていいのかわからないなか、ま ず送水系の基幹管路の復旧作業を完了させ、配水池への送水を再開させ た。これと並行して市内各地に給水所を設置するとともに、いわき管工 事協同組合から、災害協定に基づく給水応援を受け、また古ふる殿どのまちから給 水車を借り受け、風船式給水槽により避難所へ給水した。給水所は21 か所、給水車は26台、通水率は1.5%であった。

(写真3-23)

⑪ 建物の9割が被災〈小中学校〉

 大震災により、市内小中学校の約9割が校 舎や体育館などに大小の被害を受け、特に沿 岸部に位置する永ながさき小学校、豊とよ中学校、四よつくら

中学校などは、津波の来襲で1階が水没す るなど、大きな被害を受けた。(写真3-24)

(3) 市独自で久之浜・大久地区に自主避難を要請

① 懸念される放射性物質の拡散〈福島第一原子力発電所、気象庁〉

 冬型の気圧配置は緩み、高気圧は移動性となって日本を緩やかに覆った。寒気は残るものの、気候的には 穏やかな日であった。風は弱く、前日の夜から吹いていた北北西の風は午前11時ごろには南南西へ、さら に夜にはふたたび北北西へ変わった。

○ 午前5時10分=福島第一原子力発電所3号機で冷却機能が喪失

○ 午前10時20分ごろ=同3号機の炉心が損傷開始

○ 午後3時41分=政府は同3号機原子炉建屋爆発の可能性を発表

○ 午後10時10分ごろ=同3号機の圧力容器が破損

 この日の公式発表では、福島第一原子力発電所3号機が危険な状況を迎えている内容が、相次いで明らか にされた。福島第一原子力発電所周辺に住む一般住民の被ばくの可能性が発表され、専門家の判断による と、表面に付いているという状況に留まるならば健康に大きな被害がないと発表されたものの、不安は間近 に迫っていた。

 福島県は午前7時から福島県合同庁舎駐車場(福島第一原子力発電所から約43kmの位置)で空間放射線量の測 定を開始した。市においても、本庁と各支所の庁舎前で放射線量の測定を開始した。

 最初の測定、つまり午前7時では0.08マイクロシーベルト/時であった。若干の影響はみられたものの、 この日の最大値は0.09マイクロシーベルト/時、最低値は0.07マイクロシーベルト/時と安定した数値で推

3月13日

(日)

移した。

 なお、この日、気象庁は地震のマグニチュードを8.8から9.0へ修正した。

② 政府よりも早い対応と久之浜などの現場視察〈市長〉

 夜を徹した準備のもと、市長は午前8時30分、久ひさはま

・大おおひさ地区民に自主避難を要請。消防車両や市広報車 で周知し、住民の避難移動が始まった。対象者は1,890 世帯、5,775人に及んだ。(図3-4)

 避難先としては常じょうばん、内うちごうの両地区の避難所が当てら れた。地区民は市災害対策本部がバス会社やタクシー会 社などの協力で用意した大型バスなどにより、避難所の うち湯もと高校、御まや小学校など常じょうばん地区の8施設、内うちごう 地区の5施設へ避難。市が用意した緊急バス利用者は 552人にのぼった。

 菅内閣総理大臣が福島第一原子力発電所から20 ~ 30km圏内に屋内退避指示を発令したのは、3月15日に なってからだった。

 市長は震災後初めて久之浜をはじめ市内北部地区の沿 岸を視察し、現状把握に努めるとともに、避難が完了し た湯本高校において避難住民に避難経緯の状況を説明し た。(写真3-25)

 この間、第一原子力発電所3号機で冷却機能が喪失し ており、さらなる事故被害の拡大が懸念されたことから、 市長はより深刻な事態に対応するため、第一原子力発電 所から30km、40km、50km圏内ごとの避難計画を策定 するよう、本部員に指示した。

③ 滞る生活必需品〈市災害対策本部〉

 この間、原発事故が深刻さを増すとともに生活必需品 などの物流が滞るようになったことから、市長は解消へ 向け、電話などにより国会議員、国・県の関係機関に対 し、物流の正常化、水、食料、ガソリンなどの生活関連 物資の供給体制の確保、さらには電力会社に対し早期復 旧を、それぞれ要請した。これら要請は事態が悪化して いくなか、連日続くことになる。

 日常生活に伴って排出されるごみ処理については、委 託業者が全体の6割程度しか収集人員を確保できないた め、収集体制を執れない状況となった。市災害対策本部 では、市民自らが搬送して廃棄する方法も検討したが、 ガソリン不足が顕在化しているため、ごみ収集の休止と、 併せてガソリン不足を少しでも解消するため節車につい て、市民周知を図った。(写真3-26)

写真3-23 給水車から給水を受ける市民

〔3月 市水道局撮影〕

写真3-24 大きな被害を受けた、海の近くに立つ豊間中学校

〔4月1日 佐藤貴行氏提供〕

図3-4 いわき市の自主避難要請と30km圏内 福島市

郡山市

いわき市 須賀川市

南相馬市 二本松市

川俣町

本宮市

石川町 玉川村 平田村

古殿町 三春町

小野町 田村市

広野町 楢葉町 川内村 富岡町

大熊町 双葉町 葛尾村 浪江町

飯舘村

一部避難 全住民避難

10km 3km 20km

30km 14日

15日

13日

写真3-25 久之浜町の現地を視察する市長

〔3月13日 いわき市撮影〕

写真3-26 テレビでごみ収集ができな いことを報道

〔3月16日 市総合磐城共立病院撮影〕

3月

12日3月

13日

(9)

④ 放射性物質の被ばくに備えて〈市総合保健福祉センター〉

 市は、放射性物質による被ばくに対する市民の健康不安を解消するため、 この日から市総合保健福祉センターで、放射線スクリーニング検査を開始 した。(写真3-27)

⑤ 総力で沿岸部の救助・救命活動を開始〈自衛隊、警察、消防

関係など〉

 午前8時30分から、自衛隊、警察、緊急消防援助隊、市消防本部、消

防団が共同で、市内沿岸部全域で救助・救命活動を開始した。この活動は翌14日も実施された。(写真3-28)  この日午後4時現在、市内では死者が76人、行方不明者が24人と発表されたが、今後状況が悪化するこ とは必至だった。

⑧ 欠くことのできない医療や水を確保、不安解消を〈医療機関、市総合保健福祉センター〉

 市立総合磐いわ共立病院、福島労災病院などの医療機関で通水が 可能となり、市休日夜間急病診療所が診療を再開した。また、市 総合磐城共立病院医療スタッフが避難所の巡回診療を開始(~ 4 月28日)した。(写真3-29)

 しかし、この後、原子力発電所の事故状況が明らかになるにつ れて、医療体制の維持に関わる課題が次々と起こることになる。

⑨ 地震被災によって製油所からの供給がストップ〈ガソ

リン〉

 東日本の製油所が被災し、加えて大地震により道路が寸断され

たことなどにより、東北地方へガソリン供給が不能になったことが市民生活に影響するようになった。  供給元の東日本6製油所では操業を停止し、石油精製能力は約7割まで減じた。また、関東地方や東北地 方(東京およびその近郊を除く)の油槽所(オイルターミナル=精製された石油をタンカー、タンク車などにより受け入れ、 タンクローリーで消費地に配送するための施設)も約8割が操業を停止する状況となった。(図3-5)

 この日、市長は、前日の事 務レベルでの要請をさらに押 し進めるため、県や福島県石 油商業組合に対し、緊急災害 対応車両への優先給油を依頼 した。一刻も早い災害対策措 置を取るためにガソリン給油 の優先は必須であった。ガソ リン不足の情報は不安をあお り、多くの自家用車が少ない 在庫をめがけて給油所に並ぶ ことになり、そのことが災害 復旧活動を妨げた。

 この時点では、地震の影響 で被災地へのガソリンが届か

ないという事態であって、まだ原子力発電所事故に伴うガソリン不足によるダブルパンチの状況は認識され ていなかった。

 しかし、この日、東京都においては電力確保の難しさを理由に、計画停電を実施する旨、発表された。こ のことは、モノ不足に拍車をかけた。買占めに走る消費者が相次ぎ、一大消費地・東京のパニックはたちま ち地方に波及した。

⑩ 臨時便が増発〈福島空港〉

 唯一動いている交通機関の福島空港では、羽田空港線(~4月10日)、中部空港線(~3月31日)、新千歳空 港線(~3月24日)の臨時便が相次いで、設定された。

⑪ 三和町、小名浜で震度3の地震が発生〈気象庁〉

 この日、震度3の地震が三まちで4回(うち2回は小はまでも震度3)発生した。

⑥ 断水のなか、懸命に給水〈市水道局〉

 この日から基幹浄水場、水道局本庁舎などで24時間給水を開始した。簡易水道区域では、遠とおと川かわまえの 全域、田びとの一部で給水が可能となった。

 市水道局はいわき管工事協同組合の協力を得て、まず配水池から送水する幹線管路の漏水修理を行いなが ら、順次送水をめざすとともに、市総合磐いわ共立病院や人工透析病院へ優先的に通水した。

⑦ 119 か所、1 万 5,728 人〈避難所〉

 市内の避難所は午前11時現在で119か所、1万5,728人となった。

写真3-27 放射線スクリーニングの実 施場所を周知するテレビ 

〔3月16日 市立総合磐城共立病院撮影〕

写真3-28 懸命な捜索とガレキ撤去を行う自衛隊

〔3月21日 いわき市撮影〕

写真3-29 万全の医療を尽くすため連日会議が続 く共立病院の対策本部

〔3月12日 市立総合磐城共立病院撮影〕

秋田自動車道

山形自動車道 東北自動車道 磐越自動車道

八戸(4油槽所) 出荷停止・不可能 青森(3油槽所)

一部のみ出荷 秋田(4油槽所)

一部のみ出荷

東京近郊油槽所 一部のみ出荷

盛岡(1油槽所) 出荷停止 釜石(1油槽所)

出荷不可能 気仙沼(1油槽所)

出荷不可能 塩釜(4油槽所) 郡山(1油槽所) 出荷停止

出荷停止 新潟(5油槽所)

出荷可能

酒田(1油槽所) 出荷可能(制限あり)

日立(2油槽所) 出荷不可能 仙台(1製油所)

稼働停止

鹿島(1製油所) 稼働停止 京葉(千葉) 2製油所…稼働中  2製油所…稼働停止 京浜(神奈川)

1製油所…稼働中  2製油所…稼働停止

小名浜(2油槽所) 出荷不可能 西日本 製油所

北海道 製油所 製油所

油槽所 出荷可能 一部出荷 出荷不可 主要高速道

図3-5 東北地方太平洋沖地震直後の製油所、油槽所の稼動状況(3月12日)

〔資料:『石油便覧』ホームページを、一部改変して掲載〕

3月

13日

(10)

⑫ 市内沿岸部の津波避難指示が解除〈気象庁〉

 3月13日午前7時30分に津波警報から切り替えられていた津波注意報は、この日の午後5時58分に解除 された。これを受け、同時刻をもって市内沿岸部に出していた避難指示を解除した。

2 原子力発電所の爆発・火災で、広がる不安

(3 月 14 日~ 16 日)

(1) モノ不足が顕在化

① 建屋爆発にも、南風で放射線測定値が上がらず〈福島第一原子力発電所〉

 冬特有の大陸から張り出す高気圧の力は弱く、この日の気温は15度近くまで上昇した。午前中北または 北西から吹いていた風は、昼前から南あるいは南東の風向きへ変わり、夜にはふたたび北の風となった。  福島第一原子力発電所では、前日の不安が現実のものとなった。

○ 午前11時1分=福島第一原子力発電所3号機原子炉建屋で水素爆発(写真3-30)

 建屋が爆発し、黒い噴煙を上げる様子がテレビに映り、遠目でもはっきり見ることが出来た。

○ 午後1時25分=福島第一原子力発電所2号機で冷却機能が喪失

3月14日

(月)

○ 午後5時過ぎ=福島第一原子力発電所2号機の炉心が露出

○ 午後7時55分ごろ=東京電力㈱が同2号機で燃料が水面から完全に露出し、原子炉 が空だき状態、と発表

 こうして緊迫の度が増すなか、空間放射線量測定では午後9時に最高値0.10 マイクロシーベルト/時を示したものの、他の時間帯では0.07 ~ 0.09マイクロ シーベルト/時で推移した。

② 苦慮する人員配置〈市災害対策本部〉

 地震の日を除けば、この日が最初の平日だった。市災害対策本部を抱える市 は、平常業務とどのように業務を割り振りすべきか、手探りの状態であった。  今回は大震災のみならず、津波、原発事故と続き、従来の体制を大きく超え た体制が必要となったが、その規模は計り知れず、災害対策の要員をいくらと 見積もっていいのか、容易に確定できなかった。

(写真3-31)

 各支所の地区においては、支所勤務の職員に 加えて、管内各施設からの応援で対応すること になった。しかし、これにも限度があり、地区 在住者で本庁・他支所勤務の職員からも応援を 受ける状況となった。(写真3-32)

 このようななか、市内在住の外国人のために 外国人相談窓口を開設した。市公式ホームペー ジには、いち早く「災害関連メニュー」を追加 した。

 なお、本庁舎市民棟1階の床が陥没したこと から、本庁の窓口業務については、1階市民ロ

ビーに臨時窓口を設けた。また、久ひさはま・大おおひさ支所は福島第一原子力発 電所事故の影響から、窓口を休止せざるを得なかった。(写真3-33)  午後5時現在、市内において死者が120人、行方不明者が31人と発表 された。

③ 直面する多様な課題を協議〈市長、市災害対策本部会議〉

 市災害対策本部の会議では、万一に備え市民の避難準備、その輸送手 段の確保を自衛隊に協力要請、バスの手配、小はまこうふじわら埠頭からの船 舶準備、避難先の確保を検討した。また、多くの市民が被災し、また双ふた

郡の町村から避難者が続々と入ってきていることから、食料、飲料水、医薬品、日用品などの生活必需品、 それにガソリン、軽油、重油などの確保について、緊急の課題として協議した。

 このことを踏まえ、市長は、石油業界団体に対し災害対応緊急自動車用のガソリン供給、福島県知事に対 し食料、ガソリンなどの確保、国会議員に対し給水車の手配、をそれぞれ要請するとともに、物資確保のた め地元スーパーマーケットと、電力復旧・確保のため電力会社と、それぞれ協議した。

 また、刻々と危機が迫る福島第一原子力発電所爆発による放射性物質の拡散に備えることも論議された。  安定ヨウ素剤の配布も課題の一つだった。安定ヨウ素剤は高い濃度の放射性物質にさらされた場合に備え るものであった。

 放射性ヨウ素による甲状腺の障害は、甲状腺の機能が活発な若年者、乳幼児において顕著であるといわれ

写真3-30 爆発後の3号機〔3月21日 東京電力㈱提供〕

写真3-31 次々と入ってくる情 報を共有するためにボードに表示

〔3月17日 いわき市撮影〕

写真3-32 次々と入る被害と課題に対応する地区本部(常磐支所)

〔3月13日 佐藤昌宏氏提供〕

写真3-33 窓口業務が休止となった久之 浜・大久支所

〔3月12日 いわき市撮影〕

3月

13日3月

14日

参照

関連したドキュメント

この度は「Bizメール&ウェブ エコノミー」を

それでは資料 2 ご覧いただきまして、1 の要旨でございます。前回皆様にお集まりいただ きました、昨年 11

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

注意: 条件付き MRI 対応と記載されたすべての製品が、すべての国及び地域で条件付き MRI 対応 機器として承認されているわけではありません。 Confirm Rx ICM

手動のレバーを押して津波がどのようにして起きるかを観察 することができます。シミュレーターの前には、 「地図で見る日本

てい おん しょう う こう おん た う たい へい よう がん しき き こう. ほ にゅうるい は ちゅうるい りょうせい るい こんちゅうるい

私たちは上記のようなニーズを受け、平成 23 年に京都で摂食障害者を支援する NPO 団 体「 SEED

 宮城県岩沼市で、東日本大震災直後の避難所生活の中、地元の青年に